不登校
私は元不登校だ。
高校の教室に入れなくなった。
当時は、友達がいないから、とか授業についていけないから、とか思っていたが、
今ならわかる。摂食障害が原因だった。
食べ物を食べる人がいる空間にパニックを起こしてしまっていた。周りの人はそれでも優しくて、ノートの写真を送ってくれたり、心配してLINEを送ってくれたり、仲の良い友達は毎朝駅で私が来るかも分からないのに、ラインの返信すらしない私をギリギリまで待っていてくれた。
そのうち保健室登校になり、痩せていく私に先生たちは何キロになったか定期的に聞いてきた。大丈夫!40キロあるよ!と言っていたが、普通に考えて40キロは痩せている。
運良く勉強ができた私に、先生たちが保健室に来て勉強を教えてくれることもあった。テストが受けられなかった私についたのは見込み点だった。保健室登校になる前にとっていた点数が高かったので、見込みでもそれなりの高得点がついていた。
単位を落とさないように出席した体育の授業で、友達に太ももを鷲掴みにされて、痩せすぎだ、食べているか?とものすごく心配された。太っていると思い込んでいた私は戸惑った。
別の友達には、吐いている?と聞かれ、他クラスの友達は無言で私に毎日お菓子を渡してきた。
そこで私は恵まれていることに気づくべきだった。
それなのに学校に行けない自分、教室に入れない自分、ギリギリの単位、内部進学できない不安に押しつぶされそうになって、70錠の薬を飲んだ。
二週間くらい意識が混濁していた。
その間に必要単位を落として、在籍校での留年が確定した。人生、終わったな、と。
幸い、卒業に必要な単位をほぼ2年生まででとり終わっていたので、通信制高校に転学して、ほぼ負担なく1ヶ月で卒業単位を取得した。
ジショウ癖
小さい頃から集団がものすごく苦手だった。
小学校は、馴染めなかった。ただ、休むと親の機嫌が悪くなるので、頑張って通っていた。いじめもあったが、正直なところ、記憶が飛んでいてあまり覚えていない。両手の皮をズル剥けにさせたり、授業中にコンパスの針を手に刺したり、注意されても手悪戯が治らない、ストレスで知らず知らずのうちに自分を傷つけていた。親に手袋をはめられたが、中学3年生まで治らなかった。
中学校はもっと苦手だった。中学2年から通い始めた塾のおかげで居場所が出来て、勉強は楽しかった。やればやるほど結果がついてきて、英語の偏差値が塾内模試で71になった時は本当に本当に嬉しかった。周りからかけられた暴言とか、容姿に対する罵倒とか、ぶっちゃけあまり覚えていない。ただ傷ついた、だけ。
お母さんが酔っ払って話した、絶縁しているおばあちゃんの話がきっかけで、私は手の甲にハサミで傷をつけるようになった。
申し訳ないけど、13歳の子供には少し重すぎたのだ。行き場のない感情と、誰にも相談できない内容で、消化するには自分を傷つけるしかなかった。
中3の冬、学校にほぼ通わなくなった。受験に必要な日数と成績が出終わったからだ。
大学まで一貫の学校に高校から入学した。
めちゃくちゃ面白い友達が沢山できた。放課後にディズニーに行ったり、テスト期間はグループ通話をしたり、ものすごく充実していた。
でも、同じグループの中に、リストカットをする子が2人いた。私も左腕に傷をつけるようになった。最初は消える程度の可愛い傷。
そのうち、数も深さもひどくなり、手首から肘までの一面がびっしり切り傷だらけ、縫うほどの深い傷、気がついたらリスカをしていた友達よりもひどい状況になっていた。
泣く友達、困り果てる養護の先生、キレる親。
母親と衝突するたびに縫うほどの深いリスカをするようになった。過食嘔吐した回数だけ二の腕を切るようになった。
高校をやめてからも変わらずに、結局専門学校に入ってから数ヶ月続いた。
今年の6月で、リストカットを辞めて一年が経った。
やめたきっかけは、正直よくわからないけど、縫うための医療費が高すぎたのとか、専門学校の実習でしみるとか、割としょうもないこと。
別にやめよう!って思ったわけじゃなくて、気がついたら切らなくなっていた。
過食嘔吐
ここは地獄だった。
過食嘔吐は、いくら食べても太らない魔法だった。指を突っ込んで吐き、チューブを突っ込んで吐き、最終的には腹筋に力を入れただけで、食べたものをほぼ全部吐き出せるまでになった。
非嘔吐過食で太った私は、過食嘔吐と絶食でまた痩せ型に戻っていった。
太った太ったと言っても、今思えば別に人生のマックス体重でも50キロに届かない私はそもそもが痩せ型であって、ダイエットも必要なかったのだ。
チューブはすぐに親にバレた。こっぴどく叱られた。正直お金がなかったので捨てられた時はイラッとしたが、腹筋吐きをめちゃくちゃ練習して短時間でバレないように吐くことを極めるようになった。多分努力の矛先がかなり間違っている。
このころ、予備校に通っていた。やりたいことも夢も、過去の精算もできていない私はやっぱりそこでも不登校になった。
偏差値65からの転落。焦って、専門学校を選んだ。
ここまでの間の入院回数は3回。
よくなる気も、治す気もなく、ただ現実から逃げたくて入院を選択していた。
これじゃ金ドブだ。
きっかけって。
ダイエットのきっかけは?摂食障害のきっかけは?という問いに私の中の答えがあまり見つからない。
母子関係だろうか?
九年続けたクラシックバレエ?
体型いじり?
ダイエットブーム?
なんか、どれも違うようで真っ当な理由のようで、どれが正解とか、全部正解かな、なんて。
まぁ何が言いたいかと言うと、多分、成功体験が欲しくて数字が目に見える体重を選んだような気がする。
体重が、体脂肪率が、目に見えて減っていくことが幸せだった。体脂肪率が7%になった時の嬉しさを今も覚えている。
非嘔吐過食になった時、40kgを超えたら死のうと思った。10袋以上のグミや飴、バームクーヘン、ひたすら喉に詰め込んだ。重くなっていく体に毎日泣いて、それでもやめられない不甲斐なさにもっと泣いた。
当たり前だけどお金が足りなくなった。
お金を使うことが好きでなく、貯金通帳に貯めていっていた私。気がついたら小さい頃から貯めていたお金を全額過食に使っていた。絶望だった。
お金がなくなると、家族の財布からお金を抜いたり、家中の食べ物を食べ漁って吐いた。
冷凍食品を凍ったまま食べて口の皮が剥けたり、我慢できずに熱湯のままのカップラーメンを食べて大火傷、明日の朝のパン、作り置き、家族のアイス、凍ったままの肉。何にでも手をつけた。
私はバケモノだから、死ななきゃいけない、と確信した。
ダイエット、始まり
普通の人になりたかった。高校二年生の時、私の中の何かが壊れた。普通に学校に通うことと、普通の食事が取れなくなったのだ。
摂食障害という病を、知っているだろうか。私は高校二年生の時に始めたダイエットをきっかけに成人した今も、渦の中にいる。高校受験をして受かった大学附属の進学校、友人にも恵まれて受験の心配もなく、順風満帆に過ごしていた。成績も可もなく不可もなく、体型も標準以下、顔はあまり良くない。
これと言って目立つものがなかった私は、自信が欲しくてダイエットを始めた。学校帰りに3駅前で下車して家まで歩いて帰る、おやつを減らしてみる。それでもあまり体重は減らずに、私は食べたものを吐くことにした。吐いてしまえばなかったことになると思ったのだ。次第に食べることが出来なくなっていき、飴一粒さえも口に入れては吐き出していた。体重は落ちていったがそれと同時に気分が不安定になり、教室に入れなくなった。内部進学に必要な出席日数や単位を落としてしまい、自暴自棄になり、完全不登校になった。
努力して入った学校を辞めなければいけない悔しさと、学校に行かなければその分の時間を運動に費やせる、という摂食の思考で頭がおかしくなりそうだった。ダイエットを始めた頃から手足に傷を作り何針も縫ったり、何十錠もの薬を飲んで意識を混濁させたりと自傷行為がやめられなくなった。
高校三年生になってすぐ、母と言ったジムでトレーナーに、痩せすぎだと指摘された。そこで母が「バレないように脂質を摂らせているんだけど」と答えているのを聞いてから私は母の料理を吐かないと食べられなくなった。
みるみるうちに落ちていく体重、掛け布団がとても重かった。流石に死ぬかもしれない恐怖で精神科の戸を叩いた。MRIやCTを取り、沢山血を抜かれた、痩せすぎで心臓が通常の人の半分しか脈打っていないことがわかった。それほどまでに体を酷使していた。
入院した。でも病棟にはもっと細い子がいて、私は病棟で出されるご飯をこっそりビニールに入れてトイレに流した。心が苦しくて1ヶ月で退院した。
157cm34kgだった。でも、痩せているとは思わなかった。
退院後には階段を上がることが苦しくなった。
ここで何かの糸が切れたかのように
非嘔吐過食が始まってしまった。
地獄の始まりだ。